欲望の嘘

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「序」

欲望というのは、どうにも疑わしい。欲望はどこか如何わしく思える。それは如何わしい欲望があるということではない。欲望というものが何かを追い求めるものでありながら、そこには怪しげな嘘が潜んでいるように感じられるということだ。

私は長い間そう感じてきた。だから私はそのことが意味するものを考えて、ここに記す。それによって欲望というこの不可解を、いくらかでも明らかにできるかもしれないと思うからだ。

欲望とは何だろうか。それは単に快を求め、不快を避けるというだけのことだろうか。あるいは、それ以上の意味を持っているだろうか。欲望を知ることで、より良く欲望することはできないだろうか。無用で害のある欲望を捨て、有益な欲望だけを指向できるようにはなれないだろうか。

私は欲望の嘘を突き止めることを通じて、欲望がどういうものであるか、その姿を捉えたいと思う。欲望は人間の心を捉え、ときに捉えられてしまった人間を引きずり回しさえする。私はそんな強い力を備えた、私がまだ理解できていないようなものを、そのまま見過ごす訳にはいかない。欲望に捉えられる前に、欲望を捉えたい。そうした欲望をいま、私は欲望している。

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「欲望の姿」

欲望とは何だろうか。それは単に快を求め、不快を避けるというだけのことだろうか。欲望は、欲求と想像とからなると捉えることができる。欲求は人間が生理的に求めるものであり、例えば苦痛から逃れようとするというようなことが挙げられるだろう。

想像は欲求に作用し、欲求を増幅させたり変容させたりする。自分以外の人間もまた求めているという想像が、あるものに対する欲求をより強い欲望に変える。また、苦痛をものともせずに求める自分の姿を想像することが、気分を高揚させ欲求に反するような欲望を抱かせることさえある。つまり、人間は単に欲求を追い求める生き物とは言えない。

想像は物語と言い換えても良いだろう。欲求も物語も、必ずしも欲望を持った本人に意識されているとは限らない。むしろ意識化することは、欲望を弱めるものであるに違いない。欲望を支える物語が実はありきたりの物語でしかないと意識することは、欲望を弱め、殺すことである。欲望の延命を図るために人間は、それを意識することから逃れることを欲望することすらあるのだ。

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「自己意識」

欲望には物語が含まれている。物語ができる前提には、意味がある。そして、意味が生まれるためには関係が必要だ。ではその関係とは、何と何との関係だろうか。

欲望の物語における重要な関係は、自己の自己との関係だ。一人の人間は他の人間や物との間で、ある関係を持っている。単に関係があるということだけについて考えれば、それは人間以外の生き物や単なる物質についても同じだと言える。けれども、ただ人間だけが自分自身を意識している。つまり、自分自身と関係しているのである。

欲望における物語とは、自己の自己についての物語だ。自己についての意識なしには、自分にとって自分という存在が持つ意味は生まれない。自分という存在の意味がどうあるべきであって、また、どうあるべきでないかというのが、欲望の物語である。

それがつねに強く意識されているとは限らないにしても、目標とすべき自己の姿へ向けて欲望は作られる。だから、自己についての意識を持たない動物には、欲求はあっても欲望はない。

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「疑い」

自己の自己についての意識は、自分という存在の意味を生み、それにまつわる物語を作り出す。けれども自己についての物語を作れるからといって、必ずしもそれを作り出して欲望を持たなければならない訳ではないだろう。

では一体何が、欲望を欲望させるものなのだろうか。欲望が生まれる原因は自己についての意識だが、欲望が欲望される力の源は、自分が持つ自分自身に対する疑いである。それは自己を意識するという人間の性質によって、ほとんど必然的にもたらされる。

自分自身を意識するということは取りも直さず、自分がいまのような自分であって良いのかを問題にせずにはいられないということだ。それは自己についての意識を持つ存在の、逃れがたい不安である。自己についての疑いが自分がどうあるべきであるかという物語を生み出し、それに沿うような望ましい自分自身を欲望させるのである。

ただし自己に対する疑いは、意識から生まれたものではあるが、通常は強く意識されているようなものではない。意識によって疑いが何かをするための力に変えられる場合、それは欲望ではなく意志と呼ばれるものとなる。自分自身を強く疑っているような場合であっても、欲望を生み出す源となるのは、明確には意識されていない部分の疑いなのである。

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「物語」

欲望は、欲求と物語とからなっている。物語が、欲求を欲望に変える。では、物語とはどういうものであるだろうか。物語は、欲望を抱くその人自身が持つ物語であり、かつまた、その人自身についての物語である。物語の中に登場人物としての自分がいないような場合であっても、それはやはり自分自身についての物語になっている。

何かを重視して強く求めることは同時に、それを重視しているような存在として自分自身を作ることでもある。何かに対してある決まった態度を取るということは、そういう態度を取る存在として、自分で自分を意味付けることだ。欲望における物語は、自分を意味付けるための、自分についての物語である。

なぜ人間がそんな風にして自分を意味付けなければならないのかといえば、それは自分で自分のことを見ているからである。人間は、自分で自分のことを意識している。自己を意識するということは、その目的や意義を疑うということであり、疑わざるを得なくなるということだ。

自分自身を意識する人間は、自分の存在そのものを疑い、不安を抱く。そして、その不安を払拭するために自分で自分のことを意味付けようとする。そこで、物語が要請される。欲求は快を求め、不快を避ける。しかし欲望はそれだけではなく、自分自身を肯定しようとする。快不快の原則より自己肯定の目的の方が重要であるから、欲望はときに欲求に反することさえ目指そうとするのである。

また、禁忌や困難が欲望を煽るのも、理由は同じだと言える。つまり、手に入れるのが困難であればあるほど、それを成し遂げた自分を意味付けてくれる物語は強力なものになるために、その対象が強く欲望されるのだ。

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「如何わしさ」

自分についての意識を持つ人間は、自分の価値を疑い、そこから生まれる不安を取り除こうとする。不安を払拭するために要請されるのが、欲望の物語である。欲望が自己の肯定を目指しているとすれば、実際に欲望されている対象というのは自己肯定のための手段であるから、結局それは目的そのものではなく、つねにある程度は偽物だということになる。

つまり欲望は何かを欲望するが、しかし本当に求めているのは、それを通して自分自身を肯定することである。そこに欲望というものが持っている、逃れがたい如何わしさがある。けれども欲望がそれを抱いている自分自身を肯定しようとしているということは、通常は自分には意識されていない。なぜならそれを意識することは、その意図自体を疑うことと繋がっているからである。

何らかの欲望を手段として自己を肯定しようとすることは、正しいかもしれないし正しくないかもしれない。だから、そもそもそうしたやり方、欲望による自己肯定の目論見自体が、正しくないかもしれない。その疑問は、自分が抱える不安を取り除くのが重要な問題である人間にとっては、考えたくないものでしかないのである。

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「人間らしさ」

欲求を欲望に変える物語は欲望の如何わしさそのものであるが、同時にそれはしばしば「人間らしさ」とも呼ばれる。確かに自分自身を意識していない動物には自分についての物語がなく、欲望を持ってはいないのだから、自分を意識する生き物を人間しか知らない現状の人間にとって、欲望の物語を持つということが人間らしさを表現していると考えるのは、おかしなことではない。

けれども、人間らしさという表現には通常、初めから肯定的な意味合いが含まれている。恐らくそれは、物語というものを含んだ欲望が、自分を肯定してくれる力を持っているからなのだろう。例えば、苦痛をものともせずに困難に立ち向かうような形の欲望を抱いた人間は、自分自身をその苦痛より強い存在だと感じるだろうし、それと同時に、普通であれば逃げ出してしまうような状況においても戦おうとする自分を、選ばれた人間であるかのように思うだろう。

逆から捉えてみれば、欲望について人間らしさという肯定的な表現を使うことは、そもそも欲望が、それを抱いた本人を肯定するためのものだということと繋がっているように思われる。欲望が本人を肯定するためのものであるならば、人間は当然、欲望そのものを肯定しなければならなくなる。だから人間は欲望に、人間だけが持つという独自性を見出し、それを人間らしさと名付けて、素晴らしいものだと肯定しようとしているのだろう。「人間らしさ」という言葉の胡散臭さは、そこから生まれたものに違いない。

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「自己肯定」

人間は、自分自身を肯定したがっている。なぜなら、人間は自分で自分のことを意識しているからだ。自分を意識している人間は、その価値を疑わざるを得ない。縦え、自分や社会が決めた価値の基準に十分に応えていると自分自身で思っているとしても、やはり人間は「果たして、これで良いのだろうか」と自問せずにはいられない生き物なのである。

つまり、人間は不安なのだ。なぜなら自分自身を意識しているのだし、意識せざるを得ないからだ。だから人間は、自分で自分を肯定したいと思っている。そして、それこそが欲求を欲望に変える力の源である。

何らかの道具を手に入れることは、それによって自分の能力を延長し、結果としての自己を肯定しようとしているのだと考えることができる。また、自分以外の人間と何らかの関係を持とうとすることは、それらの人間から自己肯定感を得ようとすることだと捉えられる。単に身体的な快楽を求めるようなことさえ、それに値する者として自らを捉えたいがために求められる部分も少なくないと考えたとしても、決しておかしなことではないだろう。

逆に、肯定されるために快楽を捨ててしまおうとする人間もいる。禁欲的な人間は、快楽に跪きがちな多くの人間からすれば自分のできないことができる人間なのだから、賞賛の的となり得る。それゆえ禁欲家においては、欲望を捨てることが欲望されることになる。

そこでは自分以外の人間から見られているだけではなく、快楽に弱い自分を知っている自分自身からも、やはり見られているのだと言える。そして、そちらの見方の方がより重要であるに違いない。なぜなら欲望の物語とは、自己の自己についての物語であるからだ。結局のところ、欲求に近づくにせよ欲求から遠ざかるにせよ、どちらにしても欲望は自己を肯定することを目指しているのである。

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「逃避」

人間は自分自身を意識して、そこから生まれる不安のゆえに欲望を持つ。つまり欲望によって何かを成し遂げ、それを拠り所として自分を肯定しようと目論む。けれども、こうした積極的な形の欲望とは別に消極的な欲望も存在する。それはつまり、自己を意識することから逃れるために何かに熱中するという形の欲望である。

欲望が持っている自己意識からの逃避というその性質は、多くの人間に少なくとも肌触りのようなものとしては感じられている筈のものだ。それゆえ欲望はまた、自分で自分に対して拍車を掛けようとするのである。

欲望は安易に現実の自己を否定しながら、しかし同時にその安易さを感じてもいるから、そうした現実、つまり安易に現実から逃れようとしているという現実からもまた、逃れようとする。こうして欲望には拍車が掛けられ、人間は欲望に取り憑かれるのである。

欲望は現実の自分から逃れようとしているのだから、それは一つの絶望であるとも言える。欲望を抱く人間は、自分で自分を超えようとしているような気分を味わうのだが、しかし欲望自体は、それを持った自分自身を否定しているのである。欲望に拍車が掛けられるのは、そのことを否定したいと感じているからだ。つまり、欲望に加えられる拍車は、欲望を抱く原因となった自分についての否定の、否定なのだ。

欲望に捉えられた状態から我に返ったときに人間が感じる虚しさは、欲望がどこまでもそれ自身を駆り立てられないということと欲望が初めから抱えている如何わしさとを、改めて気付かされるためのものだろう。

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「意味付け」

欲望はそれを抱いた人間を、そうした欲望を抱いている人間として意味付ける。欲望がもたらす結果もまた、当然にその人自身を意味付ける。偉業を成し遂げようという欲望を持つ人間は、偉人を目指し大志を抱いている自分に酔う。そして、偉業を成し遂げた人間は偉人となる。あるいは、偉業と呼ばれるようなことをした人間は、偉人と呼ばれるようになる。

意味付けられるということは、そこにある特定の関係があるということだ。その関係は、物に対するものと人間に対するものとに大別できるだろう。そして後者はさらに、自分以外の人間に対するものと、自分自身に対するものとに分けられる筈だ。結局、自分を支える意味付けは、物との関係、人との関係、自分自身との関係の三つに分けて考えることができる。

すでに記した通り、重要なのは自分自身との関係だと思われる。自分を不安視しているのは、自分自身を意識している自分である。それを仮に、もう一人の自分と呼ぶこととしよう。自分の価値を疑い、それを値踏みしているのは、もう一人の自分である。自分という存在の意味が決まるのは、自分と自分以外の人間や物との関係によるが、その意味を読み取っているのは、もう一人の自分である。

通常、もう一人の自分は強く意識されている訳ではない。人から評価されれば、ただ直接的に嬉しいと感じるのだが、そこでは褒められた自分を見ているもう一人の自分が、自分自身のことを誇らしく感じているのである。

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「もう一人の自分」

自分自身を意識しているということが、人間の極めて人間的な特徴だ。自分を見ているもう一人の自分がいるということは、人間が抱える不安の源泉である。しかし、ほとんどの人間はそれを捨ててしまいたいとは思わないに違いない。なぜなら、単に自分以外の人や物と関係している実際の自分をではなく、それに対して判断したり評価したりしているもう一人の自分こそが自分自身であると、多くの人間がそう感じているからである。

自分を意味付けるもう一人の自分がいるのでなければ、自分という問題などは初めから存在しないことになる。確かに欲望は別な人間になりたいという欲望ではあるが、しかしもしそれが達成されたのだとしても、別の人間になった自分を評価するのはやはり変わらず自分自身であるのだし、それこそがもう一人の自分である。

欲望は通常、自分の中で自分を評価しているもう一人の自分を納得させるために、欲望される。当然、もう一人の自分を変えるという欲望を持つこともできる。しかし、もう一人の自分の価値観に従って自分は作られてきたのであるから、それを変えてしまうという欲望の実現は大きな不安を伴わずにいない。

だから、そこでもまた欲望には拍車が掛けられる。つまり、もう一人の自分が判断するその判断の正しさへの疑いから目を逸らすために、もう一人の自分を変えようとするのではない欲望が、強く欲望されるのである。人間は多くの場合、自分の価値を疑っているが、その値踏みの張本人であるもう一人の自分の価値は疑わないようにしているのだ。

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「評価の基準」

自分の中にいて自分を見ているもう一人の自分は、世界を評価し、また自分自身を評価する。だから、その評価を変えれば、つまりもう一人の自分を変えてしまえば、世界は変えられることになる。評価を甘くすれば自分としては楽になれるようにも思えるが、結果としての自分は安易でだらしがないような認めがたい存在になってしまいやすくなる。

そして、それでは存在の不安の払拭するという、本来の目的が果たされないことになってしまう。もう一人の自分が、どの程度の厳しさをもって自分を見るべきかという問題は、解決が難しい。甘い評価は自分自身をうんざりさせるような自分を作り出しやすく、しかし厳しい評価は自分を挫折させるものであるからだ。

また、自分を評価するもう一人の自分がどのようであるべきかという問題は、もう一人の自分を評価する、そのまたもう一人の自分を要請する。そして理屈から言えば、その連なりには終わりがない。つまり、自己についての意識は無限を孕んでいる。けれども実際には、現実の自分を疑ったとしても、もう一人の自分まで疑うようなことはほとんどない。

なぜなら、自分を意識している人間という生き物は、そこから生まれる不安を取り除こうとするのであり、求めている安定はもう一人の自分が従っている基準の同一性を通して目指されるからだ。つまり、人間は自己同一性を求めているのである。

それゆえ多くの場合において、もう一人の自分を疑うよりむしろ、それを正しいものと信じようとする傾向の方が強い。つまり、自分が世界と自分自身を評価するその基準に沿うように、世界と自分を変えることを目指すのである。それに固執することによって困難を抱えたとしても、自分が持つ正しさの基準に世界や自分自身が従わないことが原因だと捉えて、そうした状況にこそ屈してはならないのだと思い込むことさえ、決して珍しいことではない。

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「自己評価」

欲望はある対象を欲望していながら、その裏では自分が自分自身の評価基準から見てより優れた者になることを欲望している。しかし、自己評価が正しく公平なものであるかについての疑いは、決して消えることがない。

当然のことながら、自己評価において自分を評価するのは自分自身である。自分以外の人間を評価する場合に人間は、その相手と関わりのない存在として評価しているような気になっている場合が少なくない。

評価しようとする相手と直接関わることがあれば影響を受けることもあるし、直接関わることがないのであれば不十分な情報しか得られないだろうにも関わらず、人のことは公平な目で評価できるのだと思いこむという傾向が、恐らく人間にはある。つまり自分以外の人間に対しては、自分は客観的になれるのだと、ある程度はそう考えている。

一方で、多くの人が自己評価においては客観的であることが難しいと感じている。そのことは恐らく、自分を評価するときには自分と周りの人間との関係について、自分自身を含めて、自分が考えたい通りに捉えてしまいがちなものだと考えているからだろう。

しかし自己評価への疑いは、もっと根が深い。自分で自分を評価するとき、それをしているのは、もう一人の自分である。そして評価を行うときには、その対象を疑うということが必ず起こる。そのため自己を評価するということは、自分を疑うということでもありながら、同時にそれをしているもう一人の自分をもまた疑うということでなければならない。

それはつまり自分を疑っている自分を疑うということであって、だから、その疑い自体が意味のないものであるかもしれないという疑いを持つことをも含んでいる。結局のところ、自己評価の困難は単に主観と客観の問題などではなく、疑いへの疑いという運動を含んでいるためのものなのである。

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「関係」

自分自身を意味付けるのは、自分と何かとの間にある関係である。それは物との関係と自分以外の人間との関係と、自分自身との関係に分けることができる。物との関係による意味付けというのは字義通りで、自分自身と何らかの物質との関係によって自分を意味付けるということだ。

物との関わりの中で人が自分自身を肯定し得るような関係とは、例えば何かを上手に操るということが挙げられる。つまり、巧みに絵を描いたりするようなことである。描かれた絵は描いた本人との関係を持ち、その関係が描いた本人を意味付ける。上手に絵を描くときに描き手は、画家と呼ばれ得る存在として自らを見出す。

けれどもやはり、これは自分と自分以外の人間をともに含む意味での、人との関係と考えられだろう。なぜなら見事に描かれた絵と自己の関係は、それによって人から評価されるという形か、それを描くことで充実した自己を感じるという形として捉えられるからだ。つまり物との関係も、人との関係を目指して単に目指されているのである。しかしこれは当然のことであって、なぜなら意味というのは人間だけが持っているものなのであるからだ。

では、自分以外の人間との関係とはどういうものだろうか。自分自身を肯定するために人間は、自分が素晴らしいと思う人間たちと充実した関係を結ぶことを目指す。また自分としては認めることのできない、野蛮であったり愚劣であったり冷酷であったりするような、つまりは自分の評価の基準からすれば劣っていると思われる類の人間たちと、あるいは対立し、あるいは交わらずにいることを求める。

しかしながら同時に、前者に劣等感を味わわされ、後者に優越感を抱きもする。自分と釣り合っていると感じる人間たちといれば安心できるが、そうでなければ不安になったり、疎外されたような気持になったりもする。

充実した人間関係を築くことは、自己を意味付けるための重要な一手段である。それは間違いないのだが、しかし現実として人間関係の重要性があまりに持ち上げられているのもまた、事実である。自分を強烈に意味付けてくれるような自分以外の人間との関係は、大きな喜びをもたらす。けれどもそれは恐らく、簡単に手に入るようなものではないだろう。

だから多くの人間が、満ち足りた関係というものの素晴らしさを聞きかじり憧れを抱いて、誰かとその真似事をしてみようとする。例えば、友情を実現するために友人を作ろうとするような、無意味な逆立ちをしてしまう。そこには、自分で自分を意味付けるという、注目すべきもう一つの手段が軽視されているということが、一つの原因としてあるに違いない。

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「関係2」

自分以外の人間によって自己を意味付けることに比べて、自分で自分を意味付けることが不確実なものであるという意見は、必ずしも正しくないように思われる。自分だけを見ていようと、あるいは自分以外の人間も視野に入っていようと、結局のところ自分自身を見ているのは、もう一人の自分である。

確かに自分以外の人間からは、自分だけでは見つけられなかった視点を教えられることも多い。けれども自分の心を最も長く見ているのはやはり自分自身であり、限定された視点ではあっても、その分だけ深淵を覗くこともできる筈である。

自分で自分を意味付けるというのにも、いくつかの方法がある。ただ単に自己を省みるということも、現実の自分をもう一人の自分が評価する方法による、自己の意味付けである。また時とともに変化した自分自身を意識して、過去と現在の自分が作る関係から自己を意味付けることもできる。そして、自分を取り巻く状況はつねに変わり続けているのだから、その状況と変わることのない自分との関係から、自分が自分にとって持っている意味を探すこともできるだろう。

これらのうちで最も強力なのは、恐らく自分が変わっていくことによる自分の意味付けであるだろう。以前とは違う自分を意識するとき人間は、自分は進歩したのだと考えようとする。そこには自分の肯定を求めるという、人間が持つ、安易とも言える傾向がある。過去の自分と同じ意見を持つ人を知った場合に多くの人間が、そうした意見を持っているのは相手の未熟さのせいだと考えるのは、そのためだ。言うまでもなく、何か別の意見や立場を経ているからといって、現在の自分の意見がより進歩したものであるという保証はどこにもない。

また自己の変化についてもう一つ言うならば、縦え自分としては悪いと思える状態に変わってしまったとしても、つまり落ちぶれたように感じられるのだとしても、過去の自分を支えにして自分を保とうとすることもある。結局のところ、いずれにしても人間は、変わり続けることで自己を意味付けることができるのだと言える。

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「健全性」

欲望は欲求と物語からなる。そして欲望の健全性は、欲求からの距離で測ることができる。つまり欲求から離れれば離れるほど、その欲望は不健全だということになる。それはまた、現実からの距離と表現することもできる。

例えば、彼岸を想像しそれを求めるのは、極度に不健全な欲望である。彼岸とは、現実からは窺い知ることのできないものの象徴、現実の向こう側そのものであり、人間が体験しうる時間の彼方にあるものだ。そうした対象への欲望は、健全でない欲望の極点であるとさえ言える。

また、欲望に含まれる物語というのは欲望を持つその人自身の物語であり、それによって自分を肯定しようとしているのだから、求めるものが自分以外の人間をも含んだ集団についてのものであれば焦点がぼやけ、その健全性は失われてしまう。

単純に言って単なる成員でしかないのであれば、集団の規模が大きくなるほど、その集団における個人の意味合いは希薄になるだろう。そのため、大規模な集団についての物語によって自己を支えようとするのは、かなりの程度で不健全なことだということになる。

だから結局のところ、欲望の物語がどれだけ多くの人間に関わるものであるかによって、欲望の不健全さを測ることができる。例えば個人が持つ、国家や民族にまつわる欲望というのは、決して健全なものとは言えない。

欲望の不健全さは、如何わしさとも言い換えることができる。欲望はすべて、欲求そのものではありえず、自分以外の人間や物についての物語を含んでいるのだから、そもそもどんな欲望もいくらかは如何わしいのだというようにも言える。

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「社会的価値」

通常、欲望と社会的な価値は深く結びついている。つまり社会的価値というのは、多くの人間がそれを価値と見なすようなものであるから、自分がそれを実現できれば多くの人間から肯定されているような感覚が得られるので、結局それは欲望されやすいのである。

例えば道徳は社会的な価値の一つであり、社会を安定させるための決まり事であると考えることができる。単に理屈から言えば、多くの人間がそうした決まり事が成り立っているようなものとして世の中を捉えたいと感じているために、それぞれが道徳的であろうしているのだと考えられる。つまり道徳的なものが廃れてしまうと、多くの人間が「ひどい世の中になった」と感じるということだ。

しかし実際には、つねにそのことが意識されている訳ではなく、幼い頃から正しいとされてきた道徳観に従うことで自分や人から肯定されているように感じられるがゆえに、道徳は守られるのだ。だから、なぜその決まり事が正しいのかなどについてはほとんど問題にはされずに、道徳的である自分は社会の一員としてふさわしいのだという意識によって、道徳は守られているのである。

また、社会的価値に敢えて反抗するような欲望の選び方もあるだろう。つまり、多くの人間がそれを価値と見なし従っているようなものに反して欲望することで、少数者のみが持ちうる欲望を自分が持っているという意識によって、自分自身がより強く意味付けられるというその仕組みを、利用する人間もいるのである。

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「均一な社会」

一般的に言って、社会が豊かになると圧倒的な貧富の差は目立たなくなってくる。それは望ましい状況だと言えるかもしれないが、均一な社会は結果として、それぞれの人間の欲望を煽ることになる。同じような人間が集まると、それぞれがそれぞれを意味付けることが困難になり、自己を肯定するための欲望は肥大化していくからだ。

それぞれが互いに持つ差異が関係を作り、関係が意味を生む。意味は関係から生まれるのだが、差異が少なくなれば関係は曖昧になり、それぞれが意味付けられる力も弱まってしまう。意味付けられることが不足した人間は不安に陥り、それだけ一層、自己を強く意味付けようとして強い欲望を抱くようになる。つまりそこでは、ほとんどありもしないような差異が、ありもしないがゆえにこそ探し求められるのだ。

意味を支える関係は、自分以外の人間との関係と自分との関係の二種類しかないのだから、その片方が危うくなるのは大きな困難だと言える。また自分自身との関係を作り出すには、常に自分が変わっていくことが求められるのだから、それは誰もが簡単に手にできるものではないのである。

均一な社会というのは、大きな社会全体についてだけの話ではない。過去に存在してような階層的社会においても、それぞれの階層の中で閉じられた均一に近い社会が存在していたのであって、そこでもまた欲望が煽られるようなことは起こっていたのだと考えることができる。

例えば、貴族のように階層社会において経済的な優位を得られていた者たちは、その立場によって優雅に生活していたというよりは、自分を意味付けようとして互いに見栄を張り、そのために贅沢の限りを尽くしたと捉えることができる。結局のところ、社会の一部であろうと全体であろうと、ある人間が属する集団が均一に近付けば、欲望は肥大化していく。これは必ずしも万人に起こるものではないが、大部分の人間が巻き込まれる事態であると言えるだろう。

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「解釈」

人間は自分自身を肯定するために物語を拵え、それを欲望する。物語とは、自己を肯定するために世界を解釈する、その仕方であると言える。自己肯定が目的であり、物語はその手段でしかないため、ある事実をどういう物語で解釈するかには任意性がある。

例えば苦痛なことがあったとしても、それに対して人間は、苦痛から逃れた自由な自分を肯定すべきだという物語を持つこともできるし、苦痛に打ち克つ自分こそが望ましいのだと解釈することもできる。初めに前者を持ち、その後、後者の考えを持っても良いし、その逆でも良いことになる。つまり、選ばれる物語は任意である。

多くの人間が採用しないような解釈による物語を持てば、その特異さによって自己肯定感は強まると思われるが、それは大抵困難なものである。なぜなら、困難であるがゆえに多くの人間が採用しない場合が多いからだ。しかし困難さはやはり、その物語に人間を酔わせる力でもある。困難な物語を選択した人間は自分自身に酔うが、それはまた他の人間をも魅了する。殉教者の姿を目の当たりにした人間たちが、こぞって信者となるような例が、つまりはこれである。

物語の解釈における任意性は、欲望の如何わしさと結びついている。宗教の熱狂的な信者は、それ以外の人間に対して、物語の任意性を逆に示す。その熱狂が自己肯定感の欠如から生じたものであることを感じさせて、結局はひどく不健全なものであることを、信者以外の人間に強く知らしめるのである。

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「欲望の理想像」

欲望には、二つの目的がある。第一に、欲望は自分自身から目を逸らすことを目指す。それはつまり自己を評価しているもう一人の自分から見て、素晴らしいと思えるような存在とはほど遠い自分自身から、目を背けようとするのである。そして第二に、欲望の実現を通して自分自身を価値ある存在たらしめることを目指す。

それゆえ欲望の理想的な姿は、これらの二つを同時に満たしてくれるものであると考えることができる。つまり理想的な欲望とは、その実現のために自分を熱中させることで自分が取るに足らない存在であることを忘れさせられるものであると同時に、実際に成し遂げることができたときには、自己評価を高めてくれるようなものだということになる。

これは単に、人間が一般的に欲望によって目指しているものから導き出された理想像であって、そもそも欲望というものがどうあるべきかという考察や検証から生まれたものではない。しかし、初めから欲望というものが理想的なものを含んでいないのだとしたら、本当の意味での欲望の理想像を考えることに意味などないだろう。

そして、欲望は恐らく単に自己肯定を目指すだけのものであり、また反省によって未だ意志とはなっていないものなのだから、その実現が何らかの理想を目指すものであるとは考えにくい。だから、欲望などよりもそれが意識化された意志の方を、より重視した方が賢明であると考えることもできるが、しかし欲望が意志よりも直接的なものであるがゆえに人間にとって大きな力を持っているのだということもまた、やはり事実だと言える。

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「欲望の制御」

欲望を操ろうとするなら、その方法としては二つのものが挙げられるだろう。一つは、通常、欲望の制御と言えばそれが想像されるだろうような、単に押さえつけるという方法である。そしてもう一つは、欲望を捉え直し、その向かう先を変えてしまうという方法だ。社会的に認められないような欲望を社会的に認められている価値へと向けるような、いわゆる昇華と呼ばれるものがこれに当たる。

しかし欲望の捉え直しは欲望を殺そうとするものなのだし、また欲望の対象を移し替えることは、それが初めの状態から見て、より本心にそぐわないものになる可能性が高い。殺された欲望は完全には殺されることはなく、満たされることがないままの状態を心に作り出す。移し替えられた嘘の欲望は達成されても満足を生み出さず、その誤りを認めたくないために自らの正しさを欲望して、虚しく走り続ける。

それゆえ欲望の制御は通常、困難なものである。しかし同時に、それが大きな力の源でもあることに注目すべきだろう。欲望を本来の目的とは別のものに移し替えるとき、それは一つの嘘であるがゆえに拍車が掛けられ、欲望を抱いた本人を強く牽引し、遠くまで連れて行く。そんな風にして力が生み出される様は、極めて人間的なものである。

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「幸福の意味」

人間は欲望を通して幸福になることを目指していると捉えることもできるだろう。ここでは幸福というものを、自分で自分のことが好きだということであると考えてみる。まず、自分のことが好きな人間が幸福な人間だということは、明らかに思える。

そしてまた、自分のことが嫌いな人間は不幸な人間だということも、確かにそうだと言えそうである。これが意味することはつまり、幸福な人間は自分のことが好きだということだ。結局のところ、自分が好きであれば幸福なのだし、幸福であれば自分が好きなのであるから、単に理屈から言うなら、自分が好きだということと幸福であることとは同じだということになる。

例えば、重い病にかかった人でも、それですぐに必ず不幸になる訳ではないだろう。重病人が不幸になるのは、自由にならない自分の体を不甲斐なく思って、自分で自分のことが嫌いになるからである。また重病を煩っていても、自分のことが好きであるという気持が失われないでいるならば、その人はいくらかは幸福であるだろう。

自分で自分が好きだということにはどこか愚かしいような感覚があるのだが、それは自己評価の甘さが露わになっているように思えるからである。自分に満足している人間、つまり自分で自分のことが好きであるように見える人間に対して、「幸せな奴だ」と皮肉が言われるのも、そのためだ。

こうした解釈から、幸福というのは自分の捉え方次第だという素朴な考えを導き出すこともできる。しかし、これは言葉通りに受け取れば正しいが、幸福への方法を示唆しているつもりであるならば間違っている。

なぜなら、ある人がある状況において幸福であるかは自己評価によって決まるのだから、確かに捉え方次第ではあるが、その自己評価の仕方というのは、もう一人の自分が長い時間を掛けて作り上げてきたものであり、簡単に変えられるものではないからだ。つまり捉え方を変えれば幸福になれるというのは、まるで別の人間に生まれ変わることができれば幸福になれると言っているにすぎないのである。

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「幸福の意味 2」

人間は自分のことがより好きになれるように、欲望を通して自分を変えようとする。しかし、欲望には現実の自分の姿から目を逸らそうとするような動きも含まれている。そのことが間違っているという感覚があるからこそ、その分だけ執拗に目を逸らそうとしてまた人間は欲望に捕われてしまう。それが欲望の拍車ということであった。

自分で自分のことをより好きになろうとするような目論見が欲望にはあるのだが、そこにもまたおかしな点がある。そのおかしさとはつまり、好きになるということは意図をもってするようなことではないということによるものだ。自己評価を高めるということの前提には、自己評価を高めようとしている自分がいる。しかし、そうした自分自身は評価すべきものとは言えない。

現実の自分とそれを評価しようとするもう一人の自分とを、それぞれ別の人間A,Bと考えてみれば、その疑わしさ、如何わしさは明らかだ。自己評価を高めるということは、自分をもう一人の自分に認めさせるということだ。それは、AがBに好かれようとすることである。しかし、BがAを好きになるということは、AがBに好かれようとしていることとは独立でなければならない。

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「幸福の意味 3」

相手が自分に好かれたいと思っていることを知って相手を好きになるということは、本当の意味で好きになるということではない。つまり、相手が評価されたいと望んでいることを感じ、それが自分の評価を高めることであるがゆえに快く思って、相手を認めたい気持になるという、そういう評価は決して絶対のものとは言えない。

もう一人の自分は、現実の自分が自分に好かれたがっていることを知っているのだ。かつまた、その条件下で自分が下す評価の如何わしさも知っているのである。そして、そうした評価を求める自分をどこかで軽蔑しているのだ。そこに幸福という問題の困難がある。

先人が残した「幸福を求めてはならない」という警句は、このことに関係しているに違いない。幸福を求めるということは、自分で自分のことを好きになろうとすることであり、それは現実の自分がもう一人の自分に評価されようとすることである。

しかし、もう一人の自分はそのことの低さをつねに感じているのだ。だから、幸福を求めることは、一種の自己卑下なのだということになる。それため結局、幸福は求めるべきものではないと言われるのである。こうした見方から、欲望の如何わしさに、幸福を求めるために欲望されるその欲望の如何わしさが、また一つ付け加わったことになる。

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「真偽の判定」

欲望には限りがない、という言い方がある。もしすべての欲望についてのものならば、その言葉は間違っている。なぜなら実現されれば人に満足を与え、新たな欲望を喚起しない欲望もあると言えるからだ。虚しい欲望、つまり達成されたとしてもすぐにより強い欲望を作り出してしまうようなものを、偽物の欲望と呼ぶことができる。

反対に限りがあるものをこそ、本物の欲望と呼ぶべきだ。通常、偽物の欲望は本物の欲望の代替物であると思われる。欲望がある以上、何らかのものを目指しているのは明らかなのだし、心を満たすことがないことから、本来目指されるべきものがあると考えられるからである。

飽くことを知らない欲望のその原因とは、何であるだろうか。それは、欲望が代替物をしか目指していないということ、そして、そのために欲望に拍車が掛けられていることである。そこで拍車を掛ける力の源になっているのは、自己意識からの逃避であった。

通常は、強い欲望こそが本物であるとされる。しかしそれはまず世間一般によってではなく、自己自身によってそう見なされる。人間は何かを強く欲望するとき、そうした欲望を持つことのできた自分自身を、何か特別な存在であるかのように思う。なぜなら、そう思いたいのだし、そもそも、そう思うための欲望なのであるからだ。

しかし本当のところは逆に、強烈な欲望というのは自己意識から逃避するための手段でしかなく、実際にそこにあるのは卑小でありふれた姿の自分自身なのである。強い欲望は飛躍を目指すのだが、実際の向上は漸進的であり、飛躍などどこにもありはしない。強い欲望の中には飛躍する自己についての物語があり、だからつまりは欲望の嘘があるのだ。

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「真偽の判定 2」

ある欲望が本物か偽物かを決めるのは、自分自身である。しかし、それは意図してできることではない。つまり、ただ本人がそれと見なすだけでは自分の欲望を本物だとすることはできない。むしろ偽物の欲望をこそ、本物だと思い込もうとする傾向が強いのだと言える。

なぜなら偽物の欲望はつねに一つのごまかしであり、かつ、ごまかしのために努力する自分から目を逸らしたいと自分自身で感じているからだ。そしてまた、本来満たすべき本物の欲望から偽物の欲望へと欲望をずらした理由がある筈であって、その理由についても見ないようにしているに違いないからである。

真偽の判定は、欲望を実現することによって自分の心がどれだけ満たされるかによってしか、できない。そして、どの欲望がどれだけその人を満足させるかは各人によって異なる。だから、ある人にとって本物である欲望は、別の人にとっては偽物でしかないということもありえる。

ただし、強い欲望の方がより偽物である可能性が高い。多くの人間がそう捉えたがっているために、一般的にも強い欲望こそが本物であると考えられている。しかし強い欲望が偽物であるがゆえに、やはりまた、それが本物であるとされている場合が多いのである。実際のところ、欲望には限りがないという言葉が人々の心に違和感がないまま通用してしまうほどに、偽物の欲望が幅を利かせているのだ。

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「至上の物語」

欲望が目指すのが自己の肯定であるとすれば、欲望の中に含まれる物語としてもっとも有効なものとは、一体どういうものだろうか。恐らく自己を肯定するのに何らかの理由によってすることは、同時にそれを危うくすることだと言えるだろう。なぜなら理由があるということは、その理由を疑うことができるということであるからだ。

だから、もっとも強力なのは、理由もなく自己が自己によって肯定されていることである。それは特に何の理由もないにもかかわらず、自分にとって自分が高い価値のあるものと感じられているということだ。つまり、自分の存在の価値を自分で信じることができるということである。それは愚かしい考えだとも思えるが、やはり確かに欲望の物語における一つの極点だと言える。

では、そうした状態はどうすれば得られるのだろうか。それは恐らく、人生のある決まった時期にしか与えられることがないだろう。その時期というのは、物心が付いていないような幼い頃のことだ。そうした頃に愛情に恵まれて過ごした人間は、自分の存在が肯定されているということを知っている。自分は存在していても良いのだということが、すでに分かってしまっている。

それは勝手な解釈であって、単なる勘違いだとも言える。けれども幼い頃における彼は、それを疑おうとは思わない。それを疑うというのは、彼にとって意味のない行為だ。なぜなら彼は、現に愛されているからである。そして幼いがゆえに、人間が抱えている心の不確かさなど知りはしないからだ。

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「至上の物語 2」

ある程度成長してからでは、十全な肯定感を得るのは困難である。なぜなら本当に深く愛されていたのだとしても、それをどこまでも疑うことができるからだ。そして、幼い頃に愛されていなかったという思いが、その疑いを強めるからである。

成長してからの愛情によって肯定感を与えようとするならば、それには非常に長い時間が必要になるに違いない。つまりそれは、疑いを無意味なものに変えてしまうために必要な時間だ。

例えば何十年もの間、変わることのない愛情を注がれた人間は、その愛情を与えてくれた相手が「すべては嘘だった」と告げて彼のもとを去ったとしても、その言葉をそのまま信じはしないだろう。ただ何かの事情があったのだと、そう思うだろう。疑いを殺すためには、疑いを持つことが無意味になるほどまでに長い時間が必要だということである。

幼い頃の愛情も疑いが意味を持たなくなるほど長い間注がれ続ける愛情も得られない人間は、自分をつねに変化させ、またその都度自分の心を納得させるために、誠実な努力を続けるしかないことになる。しかし自らの価値を疑い、その不安と悲しみをつねに抱えながら、そうした努力を続けるというのは、決して万人に開かれた道ではないだろう。

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「毒薬」

欲望とは、その人自身だと見ることもできる。人間は、自分が捉えたいように世界を捉えようとする。そして、それでもどうしても存在する無視できないような齟齬を殺すために、あるべき姿に沿うように世界を変えたり、自分自身を変えたりしようとする。しかし、自分を含めてすべてを自分が思うように変えてしまうことは決してできない。そこで、嘘が求められることになる。一人の人間の中に嘘があるように、多くの欲望の中にも嘘が潜んでいる。

欲望の如何わしさの原因の一つには、縦え欲望によって目指されていることが実現したとしても、それが何をもたらすかについての疑いというものがつねにあって、それが解消されることはないということがあるのだろう。どんな目標であっても、その達成した結果を疑うことができる。しかし欲望が欲望されるとき、そのことからは目が逸らされる。欲望が達成されても、実際は何も解決などしない。すべての価値を手に入れても、そのすべてを疑うことができてしまう。本当はそこにある疑いから逃れることなしに、欲望を欲望することはできない。

欲望がもたらすものから目を逸らすことは、つまり自己意識からの逃走である。自己についての意識から逃れようとするということは、自己意識から逃れようとするそうした自己を意識することからも逃れようとするということだ。それは無限の逃走であり、つまり逃げ切ることはできないということである。人間は自分自身を意識するから、それが逃げたい心を生み出すのだが、自己意識にはそういう自分自身を意識することも含まれているから、結局はどうあっても逃げ切ることはできないのだ。

確かに、取るに足らない自己についての意識から逃れるのは、困難な瞬間をやり過ごすための薬だとも言える。しかし薬というものの例に漏れず、逃避というその薬は同時に毒でもある。つまり嘘が一つあれば、それを生き延びさせるための別の嘘が求められるのであって、自己意識から逃れるための合理化は別の合理化を要請し、結局のところ毒を飲み続けなければならないことになる。限りのない欲望は、毒を毒で中和しながら、しかしまた新たな毒を求め続けるというその運動なのである。

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「愛情」

愛情は、非常にもてはやされてきた。多くの人間が愛情を欲望している。愛こそがすべてだと主張する者さえいる。けれども、それはなぜだろうか。愛情には二つの方向がある。つまり、自分以外の人間から自分に向かうものとその逆とである。自分以外の人間から自分に向かう愛情によって人間は、自分自身が肯定されたことを知って強い喜びを感じる。

また自分から自分以外の人間に向かう愛情は、自分以外の対象へと意識を集中することなのだから、一時的ではあっても自己意識からの脱却を可能にする。どちらにせよ、そこにあるのは忘我と呼ばれるものである。だから自分から向かうものにせよ自分へ向かうものにせよ、愛情を求めるということは、もう一人の自分が自分自身を評価することからの逃避であるとも捉えられる。

そして恐らく、そのことが多くの人間に愛情に対する過剰な評価をさせているものである。つまり愛情が強く求められているとき、そこには自分で納得させることのできない自分自身への不安があるのであって、そのことから目を逸らすことを許してくれるものとして、愛したり愛されたりすることを求めるのだろうということだ。結局のところ、愛情を求めるという欲望にもまた拍車が掛けられているのであって、愛情についての大げさな物言いがそのことを証明しているという訳だ。

それでも確かに、人間にとって愛情は必要である。あるいはより正確に言えば、愛情が与えられることが非常に望ましい。だから同時に、自分以外の人間に愛情を与えることが望ましい。なぜなら、愛情は自己肯定感を与えるものであり、それこそが自己についての疑いを可能にするからである。自己をより良く変えるためには、自分自身に対するごまかしのない疑いが必要だ。愛情に恵まれなかった人間は、その疑いの辛さにほとんど少しも耐えられない存在となってしまう場合が多いのである。

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「愛情」

忘れてはならないことは、愛情が一つの感情であるということだ。愛情が感情であるからには、それは意図して作り出されるべきものはないし、またそうできるものでもない。だから愛情を高く見ることがすぎて、つねに与えたり与えられたりしていなければならないものとして捉えるのは間違いである。それが受けられない自己を低く見て愛情を求めるのは卑しいことであるし、多くの人間に対して愛情を持つべきだと考えて、あたかもそれができているかのような顔をするのは尊大なことだ。

自分自身を好む自然な感情が幸福であるように、自分以外の人間を好む自然な感情が愛情である。だからそれは、意図的に作り出すことも得ることもできない。そして幸福と同じように、意図的な操作を目指すべきものでもない。むしろ愛情を求めることの卑しさを拒否する心に対してこそ、多くの人間が愛情を感じるに違いない。なぜなら、求めて得るべきものではないのが分かっているにも関わらず愛情を求めるような自分の心の卑しさを、誰もが自分自身で感じているからである。

愛情は大切な支えである。けれども、それはやはり支えであるにすぎない。自分を立たせているのは、どこまでも自分自身でしかない。愛情の価値を声高に唱えることの裏側には、自らが本物の愛情を受けたことがないか、あるいは自らが受けている愛情への深い疑いがあるように思われる。

つまりそこには、自分自身への疑いがある。その疑いを強く意識化し克服するためには、自分自身で立つことが必要だ。それを可能にする一つの方法が愛情を受けることなのだが、それは愛情を諦めるという方法によっても可能である。なぜなら、愛情などなくとも立つことができるとする人間は、その気高さによって愛情を勝ち得るからである。

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「消極的方策」

欲望というものの問題は恐らく、そのあるべき姿が定まっていないところにある。欲望のあるべき姿が定まっていないということは、人間のあるべき姿が定まっていないということだ。人間は、どうなれば完成するというようなものではない。そしてまた、そうあるべきものでもない。どうあるべきかが定まっていないがゆえに人間は不安なのだが、同時にそうであるがゆえに人間は自由なのであるからだ。

しかし、こうした説明には転倒がある。本当はまず自己を意識する自己というものがあり、それによってすべてを疑う場所ができてしまうのである。そして人間は、不安を抱えながらも疑わしさの中から何かを選択するということを自由と名付けたのだ。つまり自由とは、人間という一個の不安が疑いの裏側に与えた美名であって、実際は解決不能な不断の困難を表現したものにすぎない。

自由であるということは、正解がないということだ。だから、どの選択も疑いうるということだ。自己を意識しているというその人間のあり方が人間に自由を強いているのであり、人間のあるべき姿、究極の姿を浮かび上がらせながらも同時に排除しているのである。それはつまり、向かうべき目標に対する積極的な表現が排除されているということだ。

どんな価値もその素晴らしさを思うことは一つの仮定であり、それは根本的な疑いに対して背を向けて行われる。どんなものであれ何かに価値を置くということは、人間が無限に嵌り込んでしまっている疑いに対する反抗である。例えば、自分以外の人間と同じであることは安心を与えてくれるかもしれない。しかし、人と違った存在であることは自分を強く意味付けてくれる。そのどちらを目指すことも、ともに疑わしいと言える。

そこにある疑わしさから目を逸らそうとするとき、どちらを求めるにしても求めることそのものが如何わしくなってしまう。そして、どちらか一方がもう一方に比べてより価値があることを証明するために求めるような、おかしな転倒が生まれてしまうのだ。だから大切なのは、どんな自分であっても疑いうるというこの、人間が捨てることのできない疑いから目を逸らさないことだと言える。

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「消極的方策 2」

如何なる欲望も、縦えそれが実現されても何らの解決ももたらさないものであるかもしれない。むしろ、その可能性の方が高い。あるいは何らかの解決が与えられたように見えたとしても、それをまた疑うことはできる。つまり、求めることは疑いの中に取り込まれている。何らかの解決を与えてくれるような欲望の形を、積極的に思い描くことはできない。

しかし反対に、解決をもたらすどころか問題を大きくするような類の欲望は確かな姿をしている。それは、実現によって根本的な解決がもたらされると捉えられているような欲望のことだ。そこでなされるのは嘘を受け入れることであり、その嘘に気付かない振りをして目を逸らすことである。

それゆえ何かを求めるとき、つまり価値を求めるとき、人間はその根拠のなさから目を逸らしてはならない。疑いから逃れようとするとき欲望は嘘によって強められるが、それこそが欲望の嘘であり罠なのであるからだ。欲望への疑いをつねに意識することは恐らく、多くの欲望を殺すだろう。

疑いから目を逸らさないということは、欲望が目指すものが自分に何をもたらすかを意識することであり、そこにある嘘を見出そうと努めることである。だからつまりは、自己自身から目を逸らさないということだ。そこで見出される欲望は、自己意識から逃れようとして生み出される代替物としての欲望ではなく、実現によってその都度解消されていくような限りのある欲望である。

しかし何度も言うように、自分にとってどれが本物の欲望であるかを積極的に言うことはできない。自分は自分自身から目を逸らしていないのだと思いたいからだ。そして自分の欲望は本物であると、何かの代わりではないのだと、そう思いたいからだ。

だから結局のところ人間は、人との関係や物を自ら作り出し、それによって自分がその都度満足することができるかということと、拍車の掛けられたより大きな欲望を抱えてしまうことがないかということとを同時に警戒するというように、自分が欲望の嘘に捉えられておかしな方向へ進んでしまうことを防ぐという消極的な方策しか手にできないのである。

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「積極的方策」

先の消極的方策の前には、何かを求めることがあるのだが、そこには一つの積極的方策があり得る。それはつまり、何を手にするにもすでにあるものを求めるのではなく、自らそれを作り出す方を選択するということだ。人間は自分で作り出すことよりも、人から与えられることを選びがちである。なぜなら、その方が安易な道であるからだ。

まず何より、自ら作り出す労を支払わずに済む。そして、自分で作り出す場合にはできあがったものが価値を持つかは分からないが、すでに自分にとって価値を持つものを求める場合には、手に入れたときに味わう失望が避けられるように思えるのである。

また実際にそれを手にすることによって、自分がそれに値する人間だと思うことができる。つまり与えられたものに相応しい人間として、同時に与えた側が与えたいと思うような人間として、自分を捉えることができる。

しかし与えられることは、その与えられるところのものと同じものを作り出すことよりも、つねに低いものでしかない。なぜなら与えられることは作り出すことよりも、自分自身を意味付けることが少ないからである。

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「積極的方策 2」

何かを作り出すときそれを作ったのは確かに自分であるが、すでにあるものを得たという場合には、それに自分が相応しい者であるかについての疑いがつねに存在する。つまり与えられることの喜びは、与えられたものと不釣り合いである自己についての潜在的な不安と、いつでも共にあらざるを得ない。

もう一方に自ら作り出すということがあるが、それが目指す究極の姿は恐らく、自分でしか作り出せないものを作り出すことだろう。自分でしか作れないものこそが、自分を何より強く意味付けてくれるからである。だが、それは天才的な能力を持つ人間だけに許された特権だと言える。けれどもだからと言って、作り出すことが限られた人間だけのためのものだということにはならない。

なぜなら、作り出されたものについて誰にも作ることができないということはないとしても、自分で作るということは自分以外の人間にはできないのだから、それは結局のところ自分にしかできないことだからである。

誰かが作ったものを手に入れるよりも、自分が作り出すことの方がもっと強く自分を意味付けてくれるということは、天才であっても凡人であっても変わりはしない。だから、自分以外の人間が作ったものを求めるのではなく、自分が作り出すということを求めるべきなのだ。

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「積極的方策 3」

求めるための積極的方策は何かを作り出すことだが、何であってもただ作り出しさえすれば良いということではない。何かを作り出すことに没入することによって自己意識から逃れようとするような、逃避としての欲望もあるからだ。

しかしそうした逃避も、結局は生み出されたものが自分に満足を与えないということによって、嘘でしかないということが明らかにされていく。だから、決して無駄にはならない。むしろ、その道しかないのだとさえ言える。結局は、これまで述べたような積極的方策と消極的方策によって何かを作り出しつつ、それが嘘であった場合には意識化して殺していくという形で、自分が求めるべきものを求めていくしかない。

そして作り出すべきもの、求めるべきものが分かったのだとしたら、もうそれをやるしかないということになる。そこでは、能力についての問題はありえない。自分以外の人間が一瞬でできてしまうことを自分が一生掛けてもできないのだとしても、それはやはり、やるしかないものだ。

求めるべきであったのは、新たにより強い欲望を作り出さないようなものである。それは簡単に言えば、自分を納得させるもののことであった。それが見つかることは喜ばしいことではあるが、しかし自分を納得させるものが何かというのが分かってしまったとしても、すべての人間が簡単にそれを求めることに向かえる訳ではない。

人間の周りには、様々な条件があるからだ。例えば社会的な条件として、自分がなすべきことは分かったが、それを仕事としていては生活していけないというようなことがあるだろう。けれどもそこで悩むことには、ほとんど意味がない。何が自分を納得させるものであるかが分かってしまった人間は、もう一般に社会で認められているというだけの価値では満足できないからだ。つまり、それ以外に付ける薬はないのである。

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「困難」

求めるべきもののために生きるのは、つねに一つの困難である。そこには、様々な理由がある。まず言えるのは、自分を納得させるもののために生きることは、つねに自分を試す生き方をすることだという点だ。それは、自分にとっての価値ではなく社会的な価値に従って生きることに比べて困難なことである。

社会的な価値は様々であり、どれを選ぶかは相対的だ。つまり、そこでは選び直しができるのであって、だから、つねに自分への言い訳ができるのである。しかし自分を納得させるもののために生きながら、納得させることができるほどの力を自らが持たないとき、そこには逃げ道がない。これが第一の困難である。

次に、生活の困難がある。自分がなすべきことを知ったとしても、それだけをして生きられる訳ではない。後に天才とされた人間たちにしてさえ、多くの場合において日々の糧を得るために苦しめられたということは、広く知られている。なすべきことのために生きることは同時に、それによって生活が浸食されてしまうことでもあるのだ。

生活を成り立たなくさせるほどの欲望こそが本物であるというように見るべきではないが、本物の欲望は確かに生活を侵し、それを成り立たなくさせやすいものだとは言える。しかし、求めるべきもののために生きるのを第一としたのでは生活が成り立たないのならば、生活をある程度成り立たせるように別のことをしたうえでそれをやるしか、やはり道はない。

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「困難 2」

他にも、社会的な抑圧というものがある。自分がなすべきことを知らず、だから勿論そのために生きることができない人間が大多数であるため、自分を納得させるために生きることを単に自らへの慰めと見たり、人のために生きることが崇高なのだとするような嘘が、世間ではまかり通っている。

しかし自分のために生きられない人間というのは、他の人間の役に立つために社会に生かされているただの家畜にすぎない。自分を納得させるものを知らない人間にとって、それをすでに知っていてなおかつ実際に成し遂げつつある人間は、自らを脅かす存在である。だから、多くの人間が抑圧を加えようとするのだ。

これらすべてが合わさって、自分の自分自身に対する疑いという困難として立ち現れる。つねに自らを試し、生活の窮乏に耐えつつまた社会的な抑圧と戦って、それでも自分を納得させるもののために生きることは、すでに大きな困難である。だから、それは深い疑いの対象であらざるをえない。

けれども本当は、自分の求めるべきものを求めるということだけが生きているということであり、それに費やされる時間だけが生活と呼ぶに相応しいものであることは間違いのないところである。

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「行方」

求めるべきものを求めることの困難を超えた先に、何が待っているのだろうか。求めるべきもののために生きる者は、人間という存在の尊厳を知る。つまり尊厳とは、自分でしか納得させることのできない自分自身についての意識である。それに対して、自分以外の人間のために生きることは自分を誰かのための道具として扱うことであり、それはまた自分以外の人間を自分の都合の良い道具と見なすことと繋がっている。

だから人間一般の尊厳を知るためには、まず自己についての尊厳を知らなければならない。そのためには、自分を納得させることを知らなければならない。けれどもそれは、ただ自分の利益だけを考えるということでは決してない。自分がなすべきことを行うことによってその尊さを知り、それを経験して初めて、自分以外の人間がそうすることを侵してはならないということが分かるようになるのだ。

感情的な面で言えば、自分がやるべきことを知った人間は、それをやることで代え難い喜びを得ることとなる。ただし同時に、それを成し遂げ続けるということでしか納得させられない自分をも知っているので、少しだけうんざりするような感情も抱えてしまう。つまり、得難い深い歓喜と逃れ難い少しの憂鬱とが待っていることになる。

また、通常の欲望は自らへの疑いによって歯止めが掛けられているが、自分自身を納得させるような本当の欲望のあり方というのは、それぞれにおいてその人独自の形をしている。それため自分を納得させるために生きる者は、求めているものの形と同じく独自の存在となり得る。結局のところ、求めるべきもののために生きる人間は、人間の尊厳を知り歓喜と憂鬱を享受する、独自の存在となるのである。

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